第2章
酒井初音ははっと目を見開き、肺の奥まで息を吸い込んだ。
視界がある。
目に飛び込んできたのは、真っ赤なベッド。けれどそれ以外は、黒と灰色で塗りつぶしたような重たい部屋だった。
冷房は、まるで霊安室みたいに冷たい。
――知ってる。全部、知ってる。
ここは御影家。
待って。見える……?
角膜が、戻ってる。
初音は自分の頬をつねった。痛い。確かに痛い。
重生した。
六年前――久世美月の代わりに、噂の「顔に傷があり、障害を負った御影家の御曹司」御影怜司に嫁がされた、あの日へ。
御影怜司は嗜血で暴虐、という噂。
二年前、原因不明の墜落事故で奇跡的に助かったものの、それ以来さらに性格が歪み、恐ろしいほど病的になったとも言われていた。医者からは「二十九まで生きられない」と宣告されている。
嫁いだ女は生きたまま未亡人になる。
そんな陰口が飛び交う御影家は、すでに六人の花嫁を用意したが、全員が怯えて逃げたか、心を壊した。
次の番が久世美月。
だが久世家は美月を手放したくない。とはいえ、財も権も桁違いの御影家を断れるはずもない。
だから――同じ母から生まれた姉の私を、身代わりに差し出した。
廊下の向こうから、車椅子の車輪が床を転がる「ゴロ……」という音が近づく。
次の瞬間、扉が乱暴に押し開けられた。
初音が顔を上げると、御影怜司が車椅子に座っていた。
半ば伏せた頭。額の髪が自然に落ち、漆黒で細長い目元をかすかに隠している。冷たい照明の下で、肌は病的なほど青白い。
目尻から、鋭い顎のラインへ。
蜈蚣のような傷跡が何本も走り、神がかった整った顔を無残に裂いていた。修羅――いや、鬼そのもの。
長く白い指が、車椅子の肘掛けをコツ、コツと叩く。皮膚の下に浮く血管と青筋が、妙に生々しい。
怜司はベッドの上にいる「余計なもの」に気づいたらしく、眉をひそめると、傍らのアンティークの花瓶を反手で叩き落とした。
ガシャン、と鈍い音。
「出ていけ!」
前世の私は、この暴力的な一撃に腰を抜かし、部屋を飛び出した。
そのとき誰かにわざと足を引っかけられ、頭を割って血まみれになり――死にかけた。
帝都の噂はこうだ。
御影怜司は「疫病神」を娶った、と。
傷だらけの障害者と、疫病神。お似合いだ、と。
名目上は妻でも、私は噂に怯え、彼を「暴虐で恐ろしい男」だと決めつけて避け続けた。
久世家に焚きつけられて彼の印章を盗み、御影家に莫大な損失まで出させたのに――
それでも怜司は、私を責めなかった。
笑わせたい一心で、宝石も、ドレスも、数え切れないほど贈ってくれた。
なのに私は、初恋の元彼――川野幸男に夢中で。
怜司の好意を、踏みにじって、焼き捨てて。
「あなたのせいで人生が壊れた」と罵り、離婚に追い込み、彼を海外へ追いやった。
離婚した私は久世家に騙されて罪を被せられ、五年の服役。
そして――監獄で死んだ。
思い出した瞬間、胸の奥がずきりと痛む。
前世で、私を最後まで抱きしめてくれたのは怜司だけだった。
命を賭けてまで、私のそばにいてくれた。
目の前の男は、傷だらけで、病に蝕まれ、家族は遠ざかり、周囲は恐れ、誰も隣に立たない。
でも今世は違う。
御影怜司。あなたには、私がいる。
初音は小さく顎を上げ、前世の恐怖を押し殺して彼に近づく。声は甘く、柔らかく。
「御影さん。今夜は新婚初夜ですよね。私たち、同じベッドで寝るんですよ」
そして、唇の端を少しだけ上げた。
「――でも、前の六人の花嫁も、あなたのお父様も知らないんじゃないですか。あなた、そもそも……EDなんでしょ」
怜司は墜落事故のあと、命は拾ったが、脚だけじゃない。顔も、そして――男としての機能も失った。
治ったのは、結婚して二年目のこと。
つまり今の怜司は――できない。
その一言で、怜司の顔色が沈んだ。
「……お前、久世美月じゃないな」
「誰だ」
指が、肘掛けを握り潰すほど強く食い込む。
深く陰った瞳は鋭く、冷たい。そこに、わずかな疑念が浮かんだ。
――こいつ、俺を怖がってない?
初音はベッドを降り、裸足のまま扉へ歩いた。
御影家が用意した、赤い艶めいたネグリジェが身体の線をなぞる。
黒く澄んだ瞳。
ただ、顔には赤いニキビが点々と散っていて、惜しいほどの美しさを邪魔していた。
彼女は身を屈め、車椅子の両脇に手首をついて覗き込む。笑うと月みたいに明るく、浅いえくぼが浮かぶ。
「酒井初音。久世美月と同じ母から生まれた、実の姉です。あなたの妻」
「外の宴、まだ終わってませんよね。これ以上追い出すなら、みんなに言います」
初音は息を含ませ、囁くように言った。
「怜司様……EDだって」
怜司のこめかみがぴくりと跳ねた。
修羅のような顔に、嘲る笑みが浮かぶ。
「脅しか」
次の瞬間。
初音の甘い香りのする柔らかな身体が、ふいに彼の膝へ落ちた。小さな手が肩に絡む。
「違います。誘惑です、御影さん」
怜司の全身が硬直する。
邪で淡い瞳に、殺気が一瞬走った。
指が少女の腰を乱暴に押しつぶすように掴み、冷たく吐き捨てる。
「出ていけ。いらない」
そして容赦なく、腕の中の小さな身体を放り投げた。
女はいらない。
まして、野心を隠しているような女など。
初音はカーペットに転がった。痛みはほとんどない。
それでも心臓が、ひゅっと縮む。
――そうだ。今の彼は、前世の「私のために死ねる怜司」じゃない。
これは初対面。彼に何かを望むのは、傲慢だ。
でも前世の彼は、私の灰を拾い、仇を討ち、骨の髄まで愛してくれた。
だから今世の私は、彼を見捨てない。
初音は立ち上がり、静かに言った。
「……じゃあ、治せるって言ったら?」
「あなたのその……隠し事。治せます。脚も治せます。ただし薬の準備に時間がいる」
「私は身代わりで嫁がされました。久世家には、私の生死なんて誰も気にしない。行く場所がないんです。庇護が欲しいだけ」
「御影さん、安心してください。お金を貯めて外で暮らせるようになったら、必ず離婚します。あなたの邪魔はしない」
「だから治療の報酬は――その間、御影家にいさせてください」
指先には、銀針が一本。
前世の今夜、私は恐怖に備えてネグリジェに忍ばせていた。
初音は間合いを測り、怜司に一気に近づく。
隙を突いて、銀針を彼の脚のツボへ――すっと刺した。
同時に。
こめかみに、冷たい金属が押し当てられる。
「久世さん。うちの旦那様に何をした」
低い声。
護衛の三村正明が、いつから潜んでいたのか、黒い銃口を少女の頭にぴたりと当てていた。
引き金ひとつで、私は前の六人より悲惨な結末になる。
だが――
怜司の眉がわずかに動き、顔色が悪くなる。
彼は乱れた膝の薄いブランケットを乱暴に引き寄せ、下半身を覆った。
「……待て」
息が乱れ、かすかに喘ぐ。
矜持に満ちた冷淡さが崩れ、怜司は冷えた声で三村を制した。
三村は怜司の膝元を一瞥し、目を見開く。
そして初音を見る目が、一気に変わった。
銃が下ろされ、彼は黙って怜司の背後へ下がる。
初音は指を握り込み、口元だけ笑った。
冷や汗が額から顎へ伝う。心臓がまだ震えている。
「……御影さん。これで信じました?」
初音は息を整え、まっすぐ言い切る。
「御影怜司。あなたのその問題だけじゃない。脚も治せる」
「私は今、帰る家がない。御影家に置いてください」
「その代わり、治します。時間はかかるけど、必ず」
久世家のことを口にした途端、悔しさで目尻が赤くなる。
それでも涙は落とさない。
小柄で、折れそうなくらい細いのに。
瞳の奥の意地と決意だけが、やけに眩しかった。
その一瞬の表情が、怜司の心のどこかを叩いたように見えた。
怜司は視線を逸らし、喉仏を小さく上下させる。
脚の銀針を乱暴に抜き取り、初音へ放った。
そして車椅子を回し、去り際に一言だけ落とす。
「好きにしろ」
背後で、三村正明が固まっている。
――御影社長が、この女を置くのを許した……?
